Ken & Merry's Second Life
 2011年3月1日〜16日  アメリカ西海岸・ハワイ旅行
海外紀行
憧れのグレゴリーペックの足手形 大陸横断鉄道発着駅・ロスアンゼルスユニオン駅 日本人ガイドでグランドキャニオンへ ラスベガスの中のパリ・ホテルパリス アルカポネも収監されていたアルカトラズ島 サンフランシスコ・リトルケープルカー ニューオータニからホノルル・ワイキキ海岸
ハワイ・オアフ島
 パールハーバー 
ロスアンゼルス(1) 
ハリウッド   
ロスアンゼルス(2) 
サンタモニカ   
ラスベガス(1)
 グランドキャニオン
ラスベガス(2) 
カジノ   
サンフランシスコ(1)
アルカトラズ島 
サンフランシスコ(2)
ゴールデンブリッジ
ハワイ(1)ホノルル
フェスティバル 
ハワイ(2)
ダイヤモンドヘッド 
3月1日〜2日 ハワイ・オアフ島
日程表 ロスアンゼルス/ハリウッド
2011年3月1日成田空港からホノルルへ
2011年3月1日(火)
成田空港
ホノルル空港
Hotel Hilton Waikiki
Prince Kuhio
ワイキキ海岸
結婚40年/ルビー婚旅行
40年前の1971年2月12日
結婚式が終わって列席の方々に見送られ、生まれて初めて乗る大型ハイヤーで式場の明治記念館から上野駅へ向かう。西郷さん像下で下車、式場からの花束を抱えたまま東北線ホームに入ると、式場から先に到着していた友人達に賑やかに迎えられる。照れくささいっぱいのまま列車に乗る。高揚した気持ちのまま数時間 夕闇せまる福島駅に到着。飯坂温泉行き電車に乗換える。運転席横の最前列に立ち ヘッドライトに照らし出され夜空に向かって真っすぐ伸びている線路だけ眺めていた。終点の飯坂駅で下車、雪の残る夜道を歩いて宿へ。
40年前 あの夜の情景は昨日のように鮮明に蘇る。新婚旅行とは名ばかり飯坂.松島1泊2日のささやかな旅だった。 あれから40年新婚旅行で叶わなかった海外旧婚旅行に出発。

ハワイ/ワイキキ海岸
 2011.3.12〜16 Kaimana Beach Hotek NewOotani

往路ANA航空券

2011年3月1日
アメリカは歴史が浅い国で旅の目的が絞りにくく、旅行前はあまり魅力を感じられないでいた。アメリカは歴史的建造物は少ないが、アメリカ人を観察したり文化を感じたりしてしっかり見てこようと思った。
成田21:35分発ANA1052便で旧婚旅行へ出発する。席は2:3:2の配列で、30番G・Fの二人席なのでゆっくり映画を見ながら7時間余り。翌朝、ハワイの州都ホノルル国際空港に到着。ハワイと日本の時差の関係で現地時間は出発と同日の1日朝9:20分。 日本はまだ冬の名残の寒さだったが、ホノルルはコバルト色の空いっぱいにまぶしい陽光が照りつけて初夏の感触、ハワイに来たのを実感。


アメリカについては、旅して帰ってからの印象は旅行前と大きく変わって、世界をリードする大国だけあって、独特の空気と奥深さを感じさせる魅力ある国だった。

ワイキキ海岸
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ホノルル国際空港での入国審査はいままでで経験したことの無い厳重なセキュリティチェックでアメリカが置かれている国際的危険度の高さを表している。
事前渡航申請も初めての経験だったし、入国審査の際の顔写真の撮影、指紋採取、などされたのにはびっくりした。時間を掛けた入国審査も無事終えて荷物をピックアップ到着階から表に出るとシャトルバス乗り場だ。沢山の乗り場でどのバスに乗っていいのか迷っているとアロハシャツの女性が、日本語で親切に教えててくれる。ホノルル空港内でも表示は日本語でされていて、周りも日本人ばかりだし案内も日本語で日本人には気楽なところだと思う。


Hotel Hilton Waikiki Prince Kuhio  ホテルバルコニーからワイキキ海岸

シャトルバス(9$)は乗車の際料金を支払い、10数人の乗客で満員になると出発する。シャトルバスは空港からしばらく走り市内に入ると、空港から近い順番にホテルに寄りながら乗客を次々におろして行く。うちは30分くらい経過した頃ワイキキ海岸近くの宿泊ホテル・ヒルトン・ワイキキプリンスに到着。ロビーは南国ムードでフロントでチェックイン。
ホテルの場所はワイキキ海岸からワンブロック入った所だったが1712号室(18階)の部屋まど一面に真っ青な空そして同じ色のワイキキビーチが広がっていて気持ちいい。


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ホテルからワイキキ海岸へ

ホテルでしばらく休憩した後に 着替えて散歩にでかける。
ホテルを出て左に折れるともうそこがワイキキビーチで水着やサーフィンボードを抱えた人が目に入る。
ときどき行き交うクラシックなデザインのワイキキトロリーバスも外向き座席の大半が日本人だ。途中の路地ではフラダンスのショーが始っていて早速芝生に腰掛けて見させてもらう。
孫のよし君と以前いわき市のハワイアンズで見たフラダンスとは違い、当たり前かもしれないがやはり本場で見るものは上手い下手でなく、踊り手のかもし出す雰囲気が全然違っていて素晴らしい。日本で見たフラダンスはとても訓練されたものだったと思うが、外人が浴衣を着て盆踊りを踊るようなものだったのかもしれない。 

ワイキキの語源は『噴出す水』でもともとここは田んぼや畑の広がる沼地で美しいサンゴ礁の海だったが、今は高層ホテルやコンドミニアムの並ぶ賑やかな町になっている。
しかしワイキキ海岸線や遠くダイアモンドヘッドなどの遠望は昔のままでたいへ美しい。



ワイキキビーチからアラモアナへむかって歩いてみる。
アラモアナショッピングセンターは世界最大規模というふれこみの大型ショッピングセンターで、ニーマン・マーカス、シアーズ、メイシーズ、ノードストロームの大型デパート4店と有名ブランドショップが多数入っている。ショップは日系の店も多く店に入ると日本語で話しかけられて外国の感じがしない。


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アラモアナショッピングセンター

ウィンドーショッピングした後は、アラモアナショッピングセンターからアラモアナ大通り〜アラワイ運河を渡り〜カラカウア大通り、そしてワイキキビーチ〜とゆっくり歩いてホテルに帰る


オアフ島は東京の80%の面積で100年以上にわたる移民の歴史で日系人は全人口の3分の1をしめ、ホノルルではどこに行って日本人が多く、日本語表示もいたるところにあって日本とハワイの関係の深さを改めて知る。

今日の歩行数は15624歩
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ヒルトンホテル18階・1712号室


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パールハーバーミズーリ号見学券 ホノルル空港シャトルバス
2011年3月2日(水)2
ホテル
真珠湾見学
ワイキキ海岸
ホテル

ホテルレストランの特大パンケーキ

2011年3月2日(ハワイ・パールハーバー見学)
AM9時起床 ラジオ体操をして1階レストランで朝食。

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ヒルトンホテルロビーは水着のまま歩くのもOK。
午後1時 ホテル近くのバス停へ。
パールハーバー直通の20番バスはなかなかこなく30分位待ってやっと来る。
真珠湾見学へ。
バスはアラモアナショッピングセンターにも寄り、そこからはパールハーバー行きのバスは頻繁に出ているようだった。
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ホテル近くから乗ったバスはホノルル空港経由のバスでだいぶ迂回してパールハーバーに向かう為真珠湾最寄り駅に1時間半もかかってしまった。
バス停からむこうには真珠湾が広がって見える。湾に向かって坂を下った先が入口で、入場券20$X2買い場内に入る。少し待って人数が集まるとバスは発車して、真珠湾岸を通り建物も何一つない広い空き地の中を沖に向かって進む。


1941年12月7日(昭和16年)早朝、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した場所に身の引き締まる思い。日本軍はこの戦いでアメリカ軍主力艦を7隻を撃沈・損壊を与え戦死者2400名負傷者1200名という大被害を与えた。今でもその時に撃沈された戦艦アリゾナ他5隻の戦艦が沈んだまま残されている。

ミズーリ号停泊地でバスを降りる。
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『新高山登れ』真珠湾攻撃全貌
出典:ウィキペディア
真珠湾攻撃
Attack on Pearl Harbor、
日本時間1941年12月8日未明、
(ハワイ時間12月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃である。当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、マレー作戦に次いで開始された作戦である。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。 
世界史的には、マレー作戦と本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。
作戦構想
オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。 真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40センチ砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。 日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる。日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。 だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は異なる構想を持っていた。 1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。当時数少ない海軍将官きっての航空通の1人であった大西は、ある程度骨子を作った後、2月に第1航空戦隊の参謀であった源田実中佐に山本の意向を伝えた。源田は1週間後、オール爆撃案と、雷爆撃併用案の2つの案を作り大西に示した。真珠湾への航空攻撃の成否を左右するのは雷撃が可能かどうかであった。 真珠湾の平均水深は12メートルである。当時の航空魚雷は攻撃機が投下し着水した後、平均数10メートル以上沈んでから航走しつつ調停深度まで浮上してくるものであった。これでは投下した魚雷はことごとく真珠湾の海底に突き刺さってしまう。 結局大西と源田は当時海軍が保有していた正規空母4隻と軽空母「龍驤」を主力とした部隊を用いて、雷撃は諦めて攻撃隊は全て爆装とした上で、水平爆撃と急降下爆撃を行うという案を山本に提出した。 水平爆撃に関しては当時既に長門型戦艦の主砲弾を改造した800キロ徹甲爆弾が完成しており、命中率は低いものの敵戦艦の撃沈は物理的に可能であったからである。 これに対して山本は不満を表して「雷撃ができないのなら真珠湾攻撃は諦める」とまで言ったといわれる。 そこで大西は雷撃に関しては攻撃前までに攻撃法を研究開発することにして、雷爆撃併用に案を改めた上で山本の了解を取り、軍令部第一部長福留繁少将に作戦準備を依頼した。
実施許可
1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化させていった。 作戦目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であるが、制海権確保のためにアメリカ太平洋艦隊の戦力を減殺する必要があるとされた。 だがこれを実現するための山本の真珠湾航空奇襲案に対して軍令部は大反対した。この案では日本海軍の持つ正規空母の全てをハワイ作戦に投入するため、南方作戦への航空支援が手薄になる上に、万が一作戦が失敗したときには、最悪日本は虎の子の正規空母4隻を全て失い、制空権、制海権を完全に失うこととなりかねないからである。 軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。 あくまで正規空母全艦投入を求める連合艦隊司令部と、軍令部の対立は日を追って激しくなり、終には作戦そのものが中止になりかねない雰囲気になりかけたが、正規空母「翔鶴」、「瑞鶴」が秋口に相次いで竣工した上、雷撃に目処が立ったことで、連合艦隊司令部が最後の賭けに出た。 連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々作戦実施を認めた。
奇襲訓練
1941年10月の真珠湾真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。 技術的な課題は、第1に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を飛躍的に高めた愛甲魚雷を航空技術廠が苦心の末に改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を大幅に抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。 第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール社、ドイツのクルップ社、安来などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。 航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。 特殊潜航艇による真珠湾侵入は生還を期しがたい決死の作戦となるため、岩佐直治大尉ら10名の特別攻撃隊が選抜された。 鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった。  1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。 以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。 南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島の単冠湾に集結、11月26日ハワイへ向けて出港した。 12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。 12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。 ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁であった。 12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。 12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。午前2時45分第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。  なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリス領のマレー半島コタ・バルで奇襲上陸作戦を行っていた。 真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。 この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった。
トラ・トラ・トラ
ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。 7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。 これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。 7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。 7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した。 7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。 これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。 8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。
第二次世界大戦の拡大
日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。 アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。真珠湾攻撃の前にマレー半島での上陸作戦(マレー作戦)が開始されているが、真珠湾攻撃によって日本とアメリカとの戦争は始まったと言って良い。 真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告した。 12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。 当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。 さらに、日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃を始めた事、その文書は交渉打ち切りの文書であって開戦や武力行使を示唆する言葉が無かったこと、日本が数日から数週間以上前より戦争準備を進めていたことが明らかなことから、真珠湾攻撃が「卑劣な騙し討ち」として宣伝されることとなったことも世論に影響した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信したと回想している。
出典:ウィキペディア

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昭和16年の戦闘で撃沈された沈没したアリゾナ号の上にはアリゾナ記念館が建てられている。
ミズーリ号は激戦地硫黄島の戦いにも参戦日本軍と戦った軍艦だ。
停泊地でバスを降り乗船見学する。1944年就航の戦艦は第二次世界大戦〜朝鮮戦争〜ベトナム戦争〜湾岸戦争まで数々の闘に参加して、第二次世界大戦後、東京湾において日本の降伏調印式がこの船の甲板で行われた。船内には日本関係の数々の遺品も展示されていて生々しい戦争の様子が伝わってくる。

パールハーバー・戦艦ミズーリ(1942年〜硫黄島・沖縄・瀬戸内海、戦艦大和撃沈戦へも参戦)
戦艦ミズーリ甲板には零戦の突入跡が残っている。
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1945年9月2日東京湾 戦艦ミズーリ艦上で日本降伏文書調印式が行われた。
調印式にはマッカーサー元帥なども出席して調印式の後9月20日ミズーリ号は真珠湾に戻った。


1945年9月2日降伏文書調印式はこの甲板位置で行われた。
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今も戦艦ミズーリ号の右舷には日本軍特攻零戦の突入炎上跡が残っている。
その時、特攻隊操縦士・石野節雄二等兵曹はミズーリ艦長の配慮で名誉の水葬にされた。(アメリカ人らしい話)

ミズーリ号内部は当時昭和16年〜頃の日本からすれば、気の遠くなるような豊かさの諸設備を見るにつけて圧倒的な力の差のアメリカに対し宣戦した日本国民と命を捧げた兵士達に悲哀を感ずる。



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見学を終え16:30頃 バス停に戻り42番バスでワイキキへ戻る。


帰ってからホテルフロントで空港までの明朝5:40分シャトルバスを予約する。
明日はアメリカ本土、ロサンゼルスに向かう。

今日の歩行数5796歩
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憧れのグレゴリーペックの足手形 大陸横断鉄道発着駅・ロスアンゼルスユニオン駅 日本人ガイドでグランドキャニオンへ ラスベガスの中のパリ・ホテルパリス アルカポネも収監されていたアルカトラズ島 サンフランシスコ・リトルケープルカー ニューオータニからホノルル・ワイキキ海岸
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